スマホ・レコード・デジタルネイティブ:『サイダーのように言葉が湧き上がる』を観て

オリジナルアニメ映画『サイダーのように言葉が湧き上がる』を観ました。以下、ネタバレありの感想です。

 

 

『サイダーのように言葉が湧き上がる』は、内気な俳句好きの男子高校生・チェリーと、人気動画配信主の女子高生・スマイルの出会いから始まる、ボーイ・ミーツ・ガール作品だ。2人が出会ったきっかけは、ショッピングモールでお互いのスマホを取り違えたこと。そしてその後、スマイルはSNSに投稿されたチェリーの俳句に、チェリーはスマイルの動画配信にそれぞれ「いいね」をつけ、お互いに惹かれあっていく。出会うきっかけと交流の過程、そして2人とも食事中にスマホをいじっていて注意されるというシーンが描かれることからもわかるように、彼らは日常の大部分にスマホを取り入れた、典型的な「デジタル・ネイティブ」として描かれている。チェリーは会話に苦手意識を持っているが、SNSに投稿した俳句を通じて、そしてノンバーバルな意志表現である「いいね」のおかげでスマイルとやりとりができる。そのような描写は、日々SNSを使っている私たちにとって、ごく当たり前の情景だろう。

また、ビビッドカラーパステルカラーで彩られたショッピングモールをはじめ、カラフルでポップな空間描写は、リアリティのある現実空間というよりも、どことなく仮想空間を連想させる。このあたりは、以前から言われているユビキタス社会、そして近年のAR技術が示すように、現実空間と仮想空間が重なり合う現代を表象しているように思える

こうしたデジタル環境やスマホというガジェットが物語の重要な要素となっている一方で、本作では「レコード」という古いメディアが、もう一つの重要な要素となっている。チェリーは腰を痛めた母親の代わりとして、ショッピングモール内のデイサービスで働いているのだが、そこに通うフジヤマという老人は、いつもモールの回りであるレコードを探していた。そしてチェリーとスマイルは、それがフジヤマの大切な思い出のレコードであることを知り、レコード探しを手伝うことになる。

実はフジヤマが探すレコードは、早世した妻の歌が収録されたものだった。2人はフジヤマのレコード店を徹底的に探し、目的のレコードを発見するが、いざ曲を聴こうとする直前、スマイルがレコードを割ってしまう。

ここで強調されているのは、レコードというメディアの物質的な側面だろう。レコードを壊してしまったスマイルは、それを接着剤で必死に修理しようとするが、うまく接着することができず、ぽろぽろと涙をこぼす。そもそも、接着したところで、再生することはかなわないだろう。形あるゆえに、物理的に壊れてしまう。そういったレコードというメディアの脆さを、スマイルは実感したに違いない。また、レコードが発売されたのははるか昔で、そこには「検索」という行為では容易に到達できなかった。ネットという広大なデータベースでも捕捉できない「外部」を、2人は認識したのではないか。

しかし、壊れてしまったものと同一のレコードが、なんとデイサービス施設内で発見される。そして、地域の夏祭りの当日、フジヤマは無事思い出のレコードーー早世した妻の声ーーを聞くことができたのだ。

一方で夏祭りのまさにその日、チェリーは引っ越しをしてしまう。惹かれていたスマイルに、自らの想いを伝えられずに。だが引っ越し先に向かう車内で、スマイルによる夏祭りの配信を視聴するチェリー。彼は車から降り、走り出す。そして会場に着いた彼は、花火が打ち上げられる中、マイクを使って「自分の声で」スマイルに想いを伝えたのだった。

 デジタルネイティブ」の2人が、レコードを通して古いメディアの物質性に触れ、最後は「いいね」ではなく、自らの肉声で想いを伝える。これだけを見るならば、デジタル時代における「古いメディア」に対するノスタルジーや、「現実の身体」の重要性を強調していると見ることも可能だろう。

だが、おそらくこのような見方は適切ではない。チェリーとスマイルは、先に述べたように「いいね」を通じて親密さを深めた、いや、だからこそ深められたのだし、スマイルがチェリーの俳句を読んだのも、チェリーがスマイルの動画を見たのも、スマホという一つのガジェットであらゆる表現が読め、見られるからこそだ。検索には引っ掛からなかったレコードを見つけられたのも、スマイルのリスナーが発した一言がきっかけだった。そして引っ越してしまったとしても、ネットを通じて、チェリーとスマイルは交流を続けていけるのだろう。

本作で描かれているのは、日常におけるテクノロジーと人間との、一つの幸福な関係ではないか。テクノロジーに関する言説は、テクノロジーが社会を変えるとか、逆にテクノロジーが人間を阻害するといった、大きな主題になってしまいがちだ。しかし、テクノロジーは、すでにかなりの期間、人間と共に歩んできている。そもそも、フジヤマが早世した妻の声を再び聴けたのはレコードというテクノジーによって、声が小さなチェリーがスマイルに想いを伝えられたのも、マイクというテクノロジーによってであった。

そして新たなテクノロジーに対して寄せられる礼賛、あるいは危惧を余所に、我々はそれらと案外うまく付き合い、日常生活を送り、人と出会い、恋をし、そして想いを伝えることができるのかもしれない。2人のデジタルネイティブが描く、ナチュラルで爽やかな青春劇を見て、そのように感じた。

変わること、そして“私(たち)らしさ” :『ガールズ&パンツァー最終章第3話』についての雑感

 『ガールズ&パンツァー最終章 第3話』を見ました。面白いんだろうとは思っていましたが、予想以上でした。TVアニメ放映から10年近くを経て、毎回期待を上回り面白さをアップデートしていく本作には驚きを隠せません。以下、観て感じたことを書き留めます。ネタバレがありますので、ご了承ください。

 


――「戦車と同じように時間もみんなも前に進んでるんだよ」

 

 『ガールズ&パンツァー最終章』、特に本作(第3話)で描かれたことは、角谷杏が発したこの台詞に集約されるように思う。
 「最終章」においては、第1話から「変わること」が物語の前面に押し出されている。「最終章」では、大洗女子学園が“追う者”から“追われる者”へと、立ち位置が根本的に変わっていることからもそれは明らかだ。その上で、第2話からは追う者である知波単学園、そして大洗女子学園もまた、追われる者として変わっていく様が描かれているように思う。

 第2話は西絹代の「我々は変わらねばならない!」という台詞で締めくくられた。その言葉通り、第3話では、知波単学園はトレードマークである「突撃」を封印し、周囲の予想に反して大洗女子学園を追い詰める。
 そこで封じられた「突撃」は、彼女らの“私たちらしさ”である。自分たちの“らしさ”を封じてまで、本作で彼女たちは「勝つこと」を希求し、最後は今一歩及ばなかったものの、ついに西住みほ率いる「Ⅳ号」を撃破するまでに至る。

 一方、知波単・大洗女子の激戦後に描かれた、プラウダ高校と黒森峰女学園の試合においても“変わること”と“らしさ”にスポットが当てられていた。
 留学でドイツに飛んだ西住まほに変わり、今大会で黒森峰の隊長を務めるのは、逸見エリカ。黒森峰らしい戦いを守ろうとするエリカに、まほの「あなたの戦車道を探せばいい」という言葉がこだまする。そして、いつもの黒森峰らしからぬトリッキーな戦術に打って出たエリカは、見事プラウダ高校を打ち破る。

 知波単、そして黒森峰の戦いを通して強調されるのは“らしさ”を乗り越えて変わるということである。
 その上で注意しておきたいのは、ここで乗り越えられるべき“らしさ”の複雑さだ。すなわち知波単の“らしさ”は、彼女らの弱点であった一方で、黒森峰の“らしさ”は、優勝校としての強さの源泉であったという点である。
 このように2校の“らしさ”は両極端であるが、どちらも乗り越えられるべきもの、そしてそれを通じてこそ変わることができるもの、として描かれている。
 
 一方で“らしさ”を乗り越え、変わることは“らしさ”を否定するのではない、ということも述べておきたい。「突撃」を封印し、大洗に奮戦する中、知波単の玉田は、西に突撃させてほしいと申し出る。それに「だが……」と言いよどむ西。しかし、玉田はこう返す。「今回の突撃はこれまでの無鉄砲な突撃ではない」と――。
 
 「変わること」とは“らしさ”を否定し、まったく別のものに変容することなのではなく、おそらくこれまでの“らしさ”見つめた上で、それをアップデートしていくことなのだろう。
 そしてそれは、新作を重ねることを通して、『ガールズ&パンツァー』という作品自体が体現していることでもある。

 最後に、本作の主役である、大洗女子学園に目を向けよう。
 大洗女子学園こそ、TVシリーズからこれまでずっと変わり続けてきたチームであった。だが、それを支えていたのは、知波単の西絹代が喝破したように「西住みほ」という巨大な存在である。これまで大洗を勝利に導いてきた、みほの変幻自在の戦術こそが、大洗の変化を象徴するものである。

 しかし、第3話は衝撃的な結末を迎える。
 そう、これまで大洗の要であり、圧倒的な強さを誇ってきた、あんこうチームの「Ⅳ号」が、序盤で撃破されてしまう、という結末だ。
 みほを失った大洗の、これまでにない「変化」が、第4話では描かれるのではないかと思う。

切り離された「エゴイズム」:『映画ヒーリングっどプリキュア ゆめのまちでキュン!っとGoGo!大変身!!』についての雑感

 
 3月20日に公開された『映画ヒーリングっどプリキュア ゆめのまちでキュン!っとGoGo!大変身!!』を見ました。結論から言うと、あまり物語として納得できるものではありませんでした。映像的には過去の劇場版と比べても遜色なく、バトルシーンの迫力も充分だったと思いますが、それ以上に批判すべき大きな問題が含まれていると感じています。
 以下、作品のあらすじと感想を記します。ネタバレが含まれていますのでご了承ください。



 『映画ヒーリングっどプリキュア ゆめのまちでキュン!っとGoGo!大変身!!』は、のどかたちが東京を訪れるシーンから始まる。作中では、夢を映し出すことができる“ゆめアール”が流行しており、のどかたちもそれを目当てにやってきたのだった。
 早速、ゆめアールを楽しむのどかたち。そしてラテの迷子をきっかけに、のどかは一人の少女と出会う。少女は不意にのどかにこう告げる。「早くここから離れて」と……。
 少女の警告に戸惑うのどかだったが、彼女とはほどなく再開することとなる。少女は“ゆめアールプリンセス”こと、人気モデルのカグヤだった。カグヤを前にして、盛り上がる大勢の人々。しかしそんな中、謎の敵「エゴエゴ」が突如として現れる。のどかたちはプリキュアに変身し、エゴエゴとのバトルがスタートする。

 実はカグヤは人間ではなく「奇跡の花」の精霊のような存在で、ゆめアールの開発者・我修院博士が、偶然出会って以来娘として育ててきた少女だった。だが、カグヤが14歳の誕生日に消滅してしまうことを知った博士は、それを防ぐため、奇跡の花急いで咲かせようとし、そのために必要な「夢のつぼみ」を人々から奪うべく生み出され、博士に使役されていたのが、エゴエゴであった。しかし、エゴエゴは博士から命令されることに嫌気がさし、カグヤを捕らえ博士に反旗を翻す。そしてエゴエゴに対峙するプリキュア……。
 
 カグヤは博士にとって子どものような存在であり、それゆえ博士はカグヤを救いたいと願う。一方で、博士によって生み出されたという意味ではエゴエゴもまさしく博士にとっての「子ども」である。なのに、エゴエゴは道具としてしか扱われず、そのことが作中で批判的に言及されることはない。カグヤを救いたいという気持ちは分かるが、そのためにエゴエゴを道具として使うのは正当化されうるのか、という疑問が湧く。

 また「エゴエゴ」という名前から「エゴイズム」をイメージするのは想像に難くない。そう考えるのであれば、エゴエゴは我修院博士のエゴイズムを象徴した存在だろう。一方でカグヤは、人々に希望をもってほしいという博士の強い願いが自分と博士を引き合わせたのではないかと言っている。すなわちエゴエゴが博士のエゴイズムの具現化であるならば、カグヤは博士の良心を象徴した存在ではないか。その意味でも、カグヤとエゴエゴは2人とも博士の「子ども」なのである。

 言うまでもなく、人間は良心を持つと同時に、エゴイズムも持っている。それらは人間から離れて存在することはできない。そして人間の中にそういった相反する物が同時に存在すること、それは『スター☆トゥインクルプリキュア』が描き出した問題ではなかったか。“想像力”(イマジネーション)は不完全であり、それゆえ差別をはじめとする悪も生み出す。しかし『スター☆トゥインクルプリキュア』は、想像力が不完全であることを認めつつ、かなり楽観的ではあるが、それが生み出す歪みを乗り越え“キラやば”な世界を作っていくという道を選んだように思う。
 
 この「映画ヒーリングっどプリキュア」では、博士のエゴイズムを、エゴエゴという存在として具現化し、人間から切り離された自律的な「敵」として描いているように思える。怒りを向けられ、倒されるべきはエゴエゴであり、博士は批判されることも、エゴエゴという存在を生み出したことを省みることもない。それは『スター☆トゥインクルプリキュア』が描いたテーマを骨抜きにしてしまうことではないか。
 
 エゴイズムを批判されるべきものとして描くならば、博士は自らのエゴイズムと、そして生み出した「エゴエゴ」に対し、何らかの形で向き合うべきであったのではないだろうか?

「国内アニメソングベスト100ランキング」への投票

 レイレイセフォー @Rayray_safoさんによる「国内アニメソングベスト100ランキング」企画に(こっそり)投票しておりました(※現在投票期間は終了しています)。なお、この企画は、ねりま @AmberFeb201さんのブログ記事を見て知ったので、私もこちらで投票曲を公開したいと思います。

 

 

■投票曲一覧

1.  桜高軽音部 / Cagayake!GIRLS(『けいおん!』OPテーマ、2009) 
2.  泉こなた(平野綾),柊かがみ(加藤英美里),柊つかさ(福原香織),高良みゆき(遠藤綾) / もってけ!セーラーふく(『らき☆すた』OPテーマ、2007)
3.  Aqours / 未来の僕らは知ってるよ(『ラブライブ!サンシャイン!!(2期)』OPテーマ、2017)
4.  ルーンエンジェル隊 / 宇宙で恋は☆るるんルーン(『ギャラクシーエンジェる〜ん』OPテーマ、2006) 
5.  yozuca* / サクラキミニエム(『D.C.IIダ・カーポII〜』OPテーマ、2007)
6.  桂ヒナギク with 白皇学院生徒会三人娘 starring 伊藤 静 with 矢作紗友里&中尾衣里&浅野真澄 / 本日、満開ワタシ色!(『ハヤテのごとく!!』EDテーマ、2009)
7.  Happy Clover / 明日でいいから(『あんハピ♪』EDテーマ、2016)
8.  阿澄佳奈,水橋かおり,新谷良子,後藤邑子 / スケッチスイッチ(『ひだまりスケッチ』OPテーマ、2007)
9.  μ's / どんなときもずっと(『ラブライブ!(2期)』EDテーマ、2014)
10.  川添珠姫 (広橋涼),桑原鞘子 (小島幸子),東聡莉 (佐藤利奈),千葉紀梨乃 (豊口めぐみ),宮崎都 (桑島法子) / BAMBOO BEAT(『バンブーブレード』OPテーマ、2007) 
11.  リシアンサス( CV.あおきさやか) / ぎりぎりHeartコネクション『SHUFFLE! MEMORIES』OPテーマ、2007 ※原曲2004)
12.  ソフィー・トワイライト(富田美憂),天野灯(篠原侑),夏木ひなた(Lynn),エリー(和氣あず未) / †吸tie Ladies†(『となりの吸血鬼さん』OPテーマ、2018) 
13.  ClariS / ルミナス(『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [新編] 叛逆の物語』主題歌、2012)
14.  水樹奈々 / innocent starter(『魔法少女リリカルなのは』OPテーマ、2004) 
15.  千佳(千葉紗子)、美羽(折笠富美子)、茉莉(川澄綾子)、アナ(能登麻美子) / いちごコンプリート(『苺ましまろ』OPテーマ、2005)
16.  N's / ひとさしゆびクワイエット!(『乃木坂春香の秘密』EDテーマ、2008) 
17.  blue drops / Ring My Bell(『そらのおとしもの』OPテーマ、2009)
18.  Petit Rabbit's with beans / セカイがカフェになっちゃった!(『ご注文はうさぎですか?? 〜Dear My Sister〜』主題歌、2017)
19.  わたてん☆5 / ハッピー・ハッピー・フレンズ(『私に天使が舞い降りた!』EDテーマ、2019) 
20.  every♥ing! / カラフルストーリー(『レーカン!』OPテーマ、2015)
21.  Rita / Alicemagic~TV animation ver.~(『リトルバスターズ!』EDテーマ、2012)
22.  鋼鉄兄弟 / BRAVE HEART(『爆走兄弟レッツ&ゴー!!MAX』OPテーマ、1998) 
23.  ULTRA-PRISM with 白玉中学校女子ソフトテニス部 / るーるぶっくを忘れちゃえ(『そふてにっ』OPテーマ、2011) 
24.  彩菜 / 風の辿り着く場所(『Kanon』EDテーマ、2006)
25.  涼宮ハルヒ平野綾) / Lost my music(『涼宮ハルヒの憂鬱』挿入歌、2006)
26.  村田あゆみ / はぴねす!(『はぴねす!』OPテーマ、2006)
27.  あんこうチーム / Enter Enter MISSION!(『ガールズ&パンツァー』EDテーマ、2012) 
28.  橋本みゆき / Glossy:MMM(『咲-Saki-』OPテーマ、2009) 
29.  fripSide / LEVEL5-judgelight-(『とある科学の超電磁砲』後期OPテーマ、2010) 
30.  みかくにんぐッ! / とまどい→レシピ(『未確認で進行形』OPテーマ、2014)


そんなに意識したつもりはないのですが、思った以上に視聴時期によるバイアスがかかっている気がします……が、もちろん全部いい曲だと思ってます。いかがでしょうか。結果発表でどんな曲が出てくるのか楽しみですね。

霜月たかなか『コミックマーケット創世記』(朝日新書)感想【再掲】

この文章は以前別のブログで書いたものです。昨日コミケについての記事を書いていたら思い出し、そこそこよく書けているような気がしたので、こちらに再掲します。なお、『コミックマーケット創世記』はアマゾンで見る限りもう在庫がないようですが、kindleで出ているようなので、もし興味があればkindle版をどうぞ。

 

 

霜月たかなか氏による『コミックマーケット創世記』(朝日新書、2008)を読んだ。2008年に出た本なので、本棚で4年程寝かせていたことになる。

基本的に、著者の霜月氏が、どのようなファン活動を通じて、1975年の第1回コミックマーケット(以下コミケ)が開催されるまでに至ったのかを、氏が関わった関係者・団体の話も交えつつ書かれている。

本書で多くを占めるコミケ「前史」の部分(「ぐら・こん」や「日本漫画大会」などの組織・ファン活動)については、正直なところ、僕にはあまり頭の中で整理できなかったのが実際だ。それらの名を聞いたのも本書が初めてであった。しかし、著者の関わったそれらの活動の挫折が、コミケの開催とその理念に大きく影響したことは間違いないのであろう。

僕が感じた重要な部分をあげると、コミケ以前のファンイベントでは、同人誌の即売は、メインイベントではなく、漫画作家の講演などのプログラムが中心となっていたことや、当時は同人誌を作るという作業自体がとてつもなく大変だったということ(今のオフセット中心の同人誌からは想像できない)など、当時同人活動を行うことは、空間的・技術的に、非常にハードルが高かったことが感じられた。

面白かったのは、コミケのイベント内容において同人誌即売を中心に添えた思想だ。

 マーケットという言葉で「同人誌に対して金銭的やり取りを正面切って肯定」し、「同人誌を裸の商品として、その評価を市場=読者に委ねるよう機能」させた。それにより同人誌は、「否応なく外と、読者の視線と向かい合わざるを得なくなるのだ。…そして市場であればこそ、参入しようと思う者にとっての障壁は低い。売るものさえあれば、障壁は消失するのだから。
(132ページより引用、ただしこの文は、関係者のひとりである亜庭じゅん氏の言葉)

市場というとどうしても悪いイメージが想起されるが、それは本を作ることさえできれば、だれもが参加できる開かれた空間を作ったのだ。

こうしてコミケは、その規模を拡大していくことになるが、霜月氏コミケに期待した、コミケという場から新たな・未知の創作が生まれていく可能性を氏自身が見いだせなくなったことにより、氏はコミケの代表を辞することになる。

コミケは、それまでのまんが界のプロ作家か読者という、2者択一の状況に第3のコミットの方法を開いたものであった。当初参加者700人で始まったこのイベントは、現在参加者50万人超という驚くべき規模へ拡大した。それはマンガ・オタク文化にとって非常に大きな影響を与えてきたと言える。
現在マンガ・オタク文化は、日本の誇るべき文化とされ、誰もが手軽にマンガ・アニメ等を楽しめるようになった。同人誌においても、それはもはやオタク文化の重要な位置を占めている。しかし、本書を読むとそれは複雑なことにも思えてくる。もはや、自分の生きる上での重要な要素としてマンガやアニメにコミットすることは少なくなってしまったのかもしれない。それがいいことなのか悪いことなのかはここでは置いておくこととして…。

現在、マンガ・アニメが奨励される一方で、作品の乱立・表現規制著作権等の問題にこの文化は直面している。どのような思想のもとで、「自由な場」としてのコミックマーケットが形作られていったのか。コミケがこれからも続いていくならば、特に僕たち若い世代が、これらのことを考え、コミケひいてはアニメやマンガ文化の未来を考える必要があるのではないだろうか。
そのためにも、特に若い世代に広く読まれるべき書であると感じた。

 

コミックマーケット創世記

コミックマーケット創世記