「シビアなフィクション」としての孤城―映画『かがみの孤城』感想

ものすごく今更ながら、映画『かがみの孤城』を見た。もう上映を終える映画館も多いようなので、ギリギリ鑑賞できたという感じです。
(以下、ネタバレがあるので注意)

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かがみの孤城』は、ある事情で学校に通えなくなった少女・こころを始めとする中学生の男女7人が、不思議な孤城に招かれるところから始まる。彼らを孤城に呼び寄せた狼様と呼ばれる仮面を被った少女は、この城に隠された鍵を来年の3月までの1年間の間に見つけることができれば、誰か1人の願いが叶えられると告げる。こうして彼ら7人の奇妙な共同生活(?)が始まるのだった。

彼ら7人は、皆現実ではそれぞれ複雑な事情を抱えている。それは学校でのいじめであったり、習い事のプレッシャーであったり、家族の喪失だったりと様々なものだ。
そんな彼らは、孤城でのコミュニケーションを通じて、徐々に打ち解け始める。つまりは、鏡を通じて入れる孤城という、ファンタジックでフィクショナブルな舞台が、彼らの「居場所」として機能している。

このようなフィクショナブルなものが、現実で何らかの事情を抱えている彼らをエンパワーメントしていると解するならば、やや強引な気もするが、『君の名は。』を始めとする新海誠作品と関連付けることも可能だろう。たとえばねりま氏は、『君の名は。』に関する論考で、次のように述べている。

 

(……)現実とは別様の現実、言ってしまえば「嘘」を語れるのがフィクションの特権であり、またその「嘘」を通して「真実」を語ることがフィクションの機能であるとするならば、『君の名は。』はフィクションの可能性にはっきり賭金をおいた、そういう物語を語っている。『フィクションが距離を突破する――『君の名は。』感想』

 

実際、『かがみの孤城』では、城がフィクショナブルな舞台であることが度々強調される。たとえば冒頭、目の前の城に戸惑うこころに対し、狼様は言う。「城だぞ。冒険が始まるとか、ワクワクしないのか?」と。

だが、こういったフィクショナブルな舞台でありながらも、それは彼らに居心地のよさを与えるだけではなく、一定のシビアさをまとっている。こころやマサムネが現実で受けてきた学校というコミュニティからの排除(≒いじめ)は、孤城の中で、皆がウレシノをバカにする、という形で再生産される。現実ではいじめの被害者であった者が、孤城では加害者になりうるという事実がここでは示唆される。
また、17時までに城を出ないと連帯責任で狼に食べられてしまうことや、そもそも鍵を見つけても願いを叶えられるのは一人だけといったルールも、孤城という舞台がともすれば現実と変わらない弱肉強食の場に変貌してしまうことを予感させる。

しかし、このようなシビアさがあったからこそ、彼らはこの舞台を通して成長することができた。それはウレシノを再び迎え入れたり、黙ってこっそり探していた鍵を皆で手分けして探そうと提案することだったり、孤城を現実を再生産する場にさせまいという彼らの行為に表れているように思う。

孤城での1年を終え、彼らは現実に帰る。こころをはじめ、彼らの記憶がどこまで残っているのか、明確には示されなかったように思うが、おそらくそれは断片的なものだろう。

我々がよく知るように、現実において、フィクションは断片的な力しか持ち得ない。そして本作においても「フィクション」というものが、現実に対し何を成しうるか、ファンタジックな設定とは裏腹に、極めて禁欲的に描かれているように思われる。しかし、そのように禁欲的で「シビアなフィクション」を通じて彼らの成長を描いたところに、この物語の価値があるように思うのである。