「友達」という曖昧な関係――『私に天使が舞い降りた! プレシャス・フレンズ』感想

『私に天使が舞い降りた! プレシャス・フレンズ』を見ました。


2019年にTVアニメが放送された『私に天使が舞い降りた!』の劇場版である本作は、星野みやこと花たち5人が、花の祖母の家に遊びに行くというストーリーである。

花たちを迎えた花の祖母は、「作った」お菓子や料理を用意し振る舞うが、後にそれらを用意したのは祖母自身ではないことが明かされる。花の祖母は、お菓子作りや料理が得意なみやこに「花を取られたくない」と思い、そのような嘘を吐いたのだという。「私はお婆ちゃんが好き。これからもずっと遊びに行く」という花に、安堵した祖母は、みやこと花のことを「良い友達」と評するのだった。

本作では、みやこと花の関係が「友達」であることが(再)確認される。とは言っても、みやこは大学生、花は小学生と年齢はずいぶん離れている。みやこ自身も、その年齢差に、花との関係を「友達」と言ってよいものかどうか、戸惑っている様子も見られる。しかし、花の祖母は「友達に年齢は関係ない」とみやこに言う。花の祖母も幼少期に、かなり年齢が上のマチと「友達」になり、今も交流が続いているのだ。

本作で「友達」であることが確認されるのは、花とみやこだけではない。おそらく、ひなたと乃愛、小依と夏音もそうであり、彼女たちの母親たち、そして花の祖母とマチも、「友達」という靱帯で接続されている。その関係性は極めてフラットで、年齢差や性といったファクターを無化し、言い過ぎかもしれないがそれらを「乗り越える」関係性として表象されているように思う。

一方で「友達」という言葉が、それぞれの関係に内包されている「不純なもの」を隠蔽する装置として機能してしまっているような印象も受ける。みやこの花に対する少々「邪な気持ち」は、彼女が花たちにコスプレをさせ写真撮影する様子から伺えるが、そういった描写も「友達」というフィルターを通じて、綺麗に濾過されているように思う。あるいは、濾過しきれない気持ちも曖昧に維持したまま、関係を継続させていく機能が「友達」にはあるのかもしれない。

このような見方が妥当だとして、それをどのように評価すれば良いのか、正直に言えばよく分からない。だが、みやこが花に対して最初に感じた「もにょっとした気持ち」は、果たして「友達」という言葉に回収されるべきなのだろうか。そのような一抹の違和感を覚えたのは確かである。

最後に付け加えるならば、みやこに対する(ある意味)歪な気持ちを隠し切れない松本が、物語の本筋からは見事に排除されているのは示唆的であり、彼女の気持ちは「友達」という関係に還元できないということが示されていると言えよう。