“お子さまランチ”の脱構築ー『映画デリシャスパーティ♡プリキュア 夢みる♡お子さまランチ』感想

『映画デリシャスパーティ♡プリキュア 夢みる♡お子さまランチ!』を見た。

 近年の「プリキュア」は、それまでシリーズが積み上げてきた主題を反復しつつも、常に新たな要素を付け加えてきたように感じていたが、本作もそのように捉えることが可能だろう。

  本作の舞台は、子どもだけが入場できるテーマパーク「ドリーミア」。その園長であるケットシーは、自身が「大人」に裏切られた経験から、純粋な心を持った「子ども」を守ろうとする。そして、大人たちをぬいぐるみに変え、世界を変えようとする。

 本作で「子ども」のメルクマールとして機能し、子どもの特権として表象されているのが、タイトルにもある「お子さまランチ」である。大人になりたいコメコメは、お子さまランチを食べることをためらうし、ケットシー自身も、自らは(子どものころゆいと食べた)「お子さまランチを(今は)食べる資格がない」とつぶやく。いわば、お子さまランチを食べ(られ) るかどうかが、大人と子どもを隔てる分水嶺となっている。

 成熟を阻み、「子ども」という檻に閉じ込めようとする敵たちに対し、抗うプリキュアたちという構図はこれまでの作品において何度か見られた。たとえば『映画ドキドキ!プリキュア』や『映画プリキュアラクルリープ』が、代表的な例として挙げられるだろう。

 本作においても、そのような構図が踏襲されていると言える。だが、本作では一歩進んで、大人/子どもという二項対立的な図式自体を、解体することが目論まれているように思う。

 「お子さまランチ」は誰でも食べていい。そして、純粋な気持ちを失いかけたとしても「お子さまランチ」がかつての思いを蘇らせてくれる。

 人は「大人になる」ことで、子どもだった頃の自分を失うわけではない。そもそも我々はいつから「大人になった」のだろうか? そう問われて、その境界を明確に答えられる者はいないだろう。

 『デリシャスパーティ♡プリキュア』は、「食べること」を通じて、人と思いを分け合うことをテーマとしてきた。その意味において、「お子さまランチ」という概念は、大人と子どもを分断してしまうものになりかねない。

 その意味において、本作は皮肉にも、タイトルに冠されている「お子さまランチ」の概念を脱構築することが、その主題だったのではないだろうか。