「忘却」への抗い 『劇場版 魔法少女まどかマギカ〈ワルプルギスの廻天〉』鑑賞メモ

(※内容に関するネタバレがあります)

 

前作「叛逆の物語」から13年を経て公開された『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ〈ワルプルギスの廻天〉』。正直「叛逆」よりもだいぶ話の構造が分かりにくく、初回ではやや消化不良だったが、再度鑑賞したところ、「叛逆」の続編としての問題意識は、それなりに明確な形で引き継がれているのではないかと感じた。

そもそもTVアニメの「まどマギ」自体が、魔法少女を犠牲にして世界を維持しようとする「システム」への叛逆の物語であるように思う。そのシステムへの叛逆は、まどか自身が「神」のような存在になってシステム自体を書き換える、ひいてはシステム自体になることによって達成される。そのシステムこそが、魔女になる前に魔法少女を救済する「円環の理」なわけだが、さらにそのシステムに反旗を翻すのが「叛逆の物語」であった。それは、ほむらが円環の理の一部である、「まどかの記録」を奪い取ることによってなされた。

さて、ほむらが叛逆を達成し、悪魔として君臨した後の世界が本作「ワルプルギスの廻天」の舞台だが、そこでは、まどかは「円環の理」であったことはおろか、「魔法少女」という存在も忘れてしまっており、ごく普通の中学生として過ごしている。円環の理として、永遠の時間を救済という役割とともに過ごすという途方もない自己犠牲。それを悪魔として否定し、まどかを円環の理から奪い去る形で「救済」したのがほむらであり、彼女はまどかが普通の中学生として生きる世界を維持しようとしていた。

そのような「ほむらの世界」を脅かす異物として、紫丁香、セルマ・テレーゼ、そして“名前のない少女”(ワス)が現れ、まどかに円環の理という役割を思い出させようと、ほむらに対立する。特に、ワスは物語中盤で「ワルプルギスの夜」であることが明らかにされる。魔法少女が魔女になる、という仕組みと、彼女の誕生には大きな関係があった。かつて、まどかと同じように「魔法少女を助けたい」と願った少女が、絶望に飲み込まれ自我を失うという魔法少女の末路に、魔女という形を与え、呪いを振りまく存在ではあるものの、新しい姿として存在し続けるようにしたのであった。しかし、彼女自身は魔女になれなかった魔法少女たちと融合してしまう。それがワルプルギスの夜であり、他の魔法少女と融合してしまった彼女は(そして他の魔法少女も)、自我を失い、私が誰であるか、そして何を願ったのか、何に絶望したのか、忘れてしまった。つまり、TVアニメにおいてまどかが抗った、魔法少女は絶望により魔女になってしまい、呪いを振りまくという世界のシステムは、かつて一人の少女がシステムに抗った結果として作り出されたものだったのである。そのシステムが「名塚底根」という、魔法少女に魔女としての新しい姿と名前を与える場所である。丁香やセレマは円環の理が不完全なものになったことをきっかけに、名塚底根を通じて現世に戻ってきた、かつて円環の理に救済された魔法少女だったのである。

丁香、セレマ、ワスの3人の思惑はそれぞれ異なり、最終的にセレマは丁香、ワスと対立する。さらに、上記の魔女誕生のきっかけもまた、本作を複雑なものにしている。
しかし、おそらく本作は「忘却」というキーワードで、ある程度の補助線を引くことができるように思う。丁香が中盤、まどかに対し突然怒りを向けたのは、おそらく彼女がかつて丁香を救済したこと、絶望を受け止めたことを忘れ、丁香の絶望と深く結びついているケーキを無自覚に差し出した上で、「残してもいいんだよ」と呟いたからだろう。また、ワスがほむらに対し敵意を向けるのは、まどかに円環の理であることを忘れさせ、まどかを救うという名目で「籠の中の鳥」にしているためである。
それは彼女が、かつて自我を保てなくなる=私が私であることを忘れてしまう、という忘却に抗ったからである。また「忘れてしまう」ことは、当然「自分が願ったこと」も忘れてしまうということである。それを「忘れさせてしまう」ことは、それを願った「私」の決断、ひいては「私」を否定してしまうということである。そして願ったことと表裏の関係にある「絶望」もまた、「私」を構成する要素に他ならない。
ゆえに、救済とは絶望や苦しみを忘れさせることではなく、絶望や苦しみを受け止めることによってなされなければならない。かつて一人の魔法少女が呪いを振りまくという形であっても、魔法少女に魔女としての姿を与えたのは、忘却ということの暴力に抗った結果である。

円環の理としてのまどかは、おそらく個々の魔法少女たちの絶望を受け止め、「私が私であること」を受け止めたのだろう。かつて魔女という存在を生み出した少女、「マルグリート」も彼女自身の名をまどかに呼ばれることで、救済されたのである。

しかし、円環の理としての救済は、それ自身であるまどかには及ばない。まどかは他の魔法少女を救済する代わりに、自らは「忘却される」という犠牲を払わねばならない。
つまり、ほむらがまどかを救うには、彼女から円環の理としての記憶を忘れさせるべきではないのである。なぜならそれは「魔法少女を救いたい」というまどかの願いを消去することであり、そして「忘却」という刃をまどか自身に向けてしまうことでもあるからだ。

ほむらがなすべきであったのは、魔法少女を救うという決断をしたまどかを救うことであり、円環の理という概念に対し「まどか」と呼びかけることだったのだ。「ワルプルギスの夜」に対し、「マルグリート」と呼びかけたまどかのように。今回の結末は、ほむらの円環の理に対する真の叛逆であると、差し当たり私は理解している。

素朴な平和への思い―『果てしなきスカーレット』感想

『果てしなきスカーレット』を、知人と観に行きました。Twitterで流れてくる感想は出来るだけ見ないようにしていたのですが、時折目に触れてしまう感想に不穏な感じがしていました。

見始めると、序盤はなかなかよさそうな展開で、面白くなりそうな気配が感じられたのですが、見ていくうちに段々と納得できない部分が増えていき、見終わったときには「なんだこれは……」と思ってしまったというのが正直なところ。ただ、その後一緒に見た知人と話をするうちに思ったところも出てきたので、それを記そうと思います。

 

物語の主人公・スカーレットは、和平を貴ぶ君主である父を慕っていた。だがそんな父は、権力欲にまみれた実弟と、彼と手を組んだ妻の手にかかり処刑され、実弟は悪逆な新たな君主として君臨する。その日から父の仇を討つため、日々を生きてきたスカーレットは、時を経て復讐を企てる。しかし、逆に毒薬を飲まされ自らも殺されてしまう。そうして彼女は「死の国」に墜ち、そこで再び父の復讐を果たそうとする――。

「死んでもなお」復讐という憎しみにとらわれるスカーレットは、現代から死の国に来た青年・聖(ひじり)と出会う。敵であっても、殺すことを是としない聖を、スカーレットは「現実を見ない良い子ちゃん」と否定する。事実、この世界では多くの人々が猜疑心にかられ、他者を信じられないでいる。そんな中で、聖は看護師として、傷ついた人に歩み寄り、信頼を勝ち取っていく。その姿を見て、復讐に駆られたスカーレットの心も少しずつ動いていく。

物語の軸となるのはスカーレットと聖の二人で、復讐という憎しみにとらわれたスカーレットと、人が殺し、殺され、死ぬ世界に抗おうとする聖が対照的に描き出されている。ただし、理不尽な理由で父を奪われ、新たな君主は民に暴力を振るう――そんな経験を味わったスカーレットが抱く憎しみに比べ、聖のそれは特に作中で掘り下げられることはない。このあたりが非常にアンバランスに感じ、憎しみや復讐(に伴う暴力の連鎖)に抗うには、著しく不足しているように思えた。

一方で、こうも言えるかもしれない。事実、私もそう言われたこともあったかもしれない。現実世界に起きている数々の暴力――それには「暴力」を持って立ち向かうしかない。それらに「平和」や「非暴力」を唱える声は、あまりに素朴で、無力である、と。

事実、聖が言うそれは確かに作中でもあまりにも素朴な思いである。しかし、その「素朴さ」をあえて描いたのならば、この物語は苛烈な暴力によって生じた「復讐」という暴力の連鎖と、一見「お花畑」できれいごとに思える「素朴な平和への思い」を対峙させようとしたのではないか。

本作を見たならば、どうしても現実社会に依然として存在する暴力を想起せざるを得ない。同時に「現実主義者」として暴力を「必要悪」として是認する意見が目立ってきているとも感じる。そのような中、「素朴な平和への思い」は、持ち続けなければならないのだ私は思う。本作はそれを描こうとしたのかもしれない。

しかし、そうだとしても本作での描写は、あまりにもご都合主義的に思える。これでは、逆に「素朴な平和への思い」に、反感を覚えられてしまうのではないか?

 

有限性と“永遠”―『わんだふるぷりきゅあ!ざ・むーびー! ドキドキ・ゲームの世界で大冒険!』

現在放送中の『わんだふるぷりきゅあ!』の劇場版作品は、一見本編のモチーフである「動物」とは関係が薄いように思われる、ゲーム世界が舞台となっている。その一方で、劇場版プリキュアにおいて定番とも言える閉鎖的ないし循環的な空間からの脱出劇というストーリーは、今作においても踏襲されている。

今回、主人公のこむぎをはじめとする人間と動物のプリキュア4人は、ムジナという巨大タヌキが統べる「ドキドキ♡タヌキングダム」というゲーム世界に閉じ込められてしまう。ゲーム世界から脱出しようとするこむぎたちにムジナは言う。ここなら飼い主であるいろはたちと「ずっと一緒にいられる」と。しかしこむぎはそれを拒否し、こう返す。「いろはと一緒に、おばあちゃんになるんだワン!」

言うまでもなく、現実における有限な身体では、ずっと、すなわち「永遠」に一緒にいることはできない。それでは、こむぎは「永遠」を否定したのかというと、それもまた違う。こむぎは現実世界でいろはと「ずっと一緒にいる」つもりであり、それは今作のプリキュアにおける必殺技である「エターナルキズナシャワー」という名にも表れている。

今作では「ゲーム世界」に象徴されている「永遠」という空間を拒否し、現実という有限な空間に回帰するという構図は、プリキュアの劇場版作品において数多く描かれてきた。先述の通り、その構図は今作においても踏襲されているが、その上で、現実世界では物理的に不可能である「永遠の絆」を希求するところが、今作における印象的な点だったように思う。

また、物語のラストで、人間と動物という言語が通じない者同士であっても「気持ち」は伝わるということが示唆された。これは、正直に言うとやや素朴に過ぎるきらいもある。一方で、悟が言葉を話せるようになった大福と対峙し、「大福と話せて嬉しい」と吐露するように、動物と言葉を交わしたい、言語的にコミュニケートしたいという願い、あるいは欲望もまた否定されはしない。この点も言語という「有限」なコミュニケーション手段と、そうではないもの(気持ち?)という一見対立的なものを同時に肯定しているように思える。

こうしたメッセージは、ある意味ではひどく無根拠である一方、そこにある種の切実さ(それをここでは明確に言語化できないが)を見いだすことも可能かもしれない。

世界、存在、そして他者――『映画プリキュアオールスターズF』感想

『映画プリキュアオールスターズF』を見た。プリキュアシリーズの20周年を飾る一作として、シリーズを通して主張されてきた要素が再確認されている作品だと感じた。

(以下、ネタバレ有り)

 

『ひろがるスカイ!プリキュア』の主人公・ソラをはじめ、他のキャラクターたちは、ある世界で他のプリキュアたちを出会う。なぜこの世界に自分たちがいるのかはわからない。しかし、仲間たちもこの世界にいるはずだ。そう信じて、彼女たちは仲間たちと合うため、そびえ立つ「城」を目指す。そんな中、ソラたちは「キュアシュプリーム」と名乗る一人のプリキュアと出会う。

 やがてそびえ立つ塔にたどり着き、仲間たちと合流するソラたち。だが、プリキュアであるはずのキュアシュプリームは、突如として彼女らに牙を剥く。実はシュプリームは、プリキュアたちを倒し、世界を新たに作り替えた存在だった。そしてプリキュアの強さに興味を持ったシュプリームは、作り替えた世界で弱いものと悪者を作り出し、プリキュアとして「悪者」を倒す実験を始めたのだった。

 シュプリームによって、バラバラにされ、作り変えられてしまった世界。その事実を知り、失意に飲まれるプリキュアたち。

 シュプリームによって書き換えられ、自分たちは消されたはずだ。ではなぜ自分たちはここにいるのか?――「意味が分からない」そうこぼすキュアプリズム。それに答えるキュアスカイも同様だ。しかしそのとき、プリズムは何か気づいたように「それだよ」と返す。

 それをきっかけに、プリキュアたちによる「自分たちの世界を取り戻す」ための反撃がはじまる。

 

 私は、プリキュアという作品を通じて、「他者」が大きなキーワードとして有り続けてきたと思っている。そして、本作でもそれが、改めて大きな主題として再確認されているように思う。

 プリキュアの世界観において、「私」は、絶対的な「他者」によって存在を根拠づけられているわけではない。しかし一方で、「他者」を必要としない絶対者としての「私」が存在しているわけでもない。「他者」というのは、間違いなく「私」の存在を支えているのだが、「私」と「他者」は決して従属関係にあるのではない。それが「プリキュア」で幾度となく言及される「友だち」という他者なのだろう。

 おそらくプリキュアが目指しているのは、誰かによって存在「させられている」ことがない世界であるが、しかし「私」が孤立することなく、互いに存在を肯定しあい、共に存在していくことのできる世界なのだろう。

 絶対者であり、あろうとするシュプリーム=プリムは、その意味でプリキュアたちにとって相反する思想を持った者なのであり、プリムが生み出し、プリムに存在させられた「プーカ」がプリキュアになり、プリムに立ち向かうといった構図も、その批判として表象されているように思う。

 ここで、『ひろがるスカイ!プリキュア』のキーワードが「ヒーロー」であることを、今一度思い起こすのならば、プリキュアにおいて「ヒーロー」とは、強大な力を持つ無欠の絶対者ではなく、他者と支え合う存在であることが示唆される。そしておそらくこれは、これから終盤へ向かう『ひろがるスカイ!プリキュア』においても、重要な意味を帯びてくるように思う。

 

「フィクション」あるいは「物語」への対峙?――『シン・仮面ライダー』感想

『シン・仮面ライダー』見ました。今回は、私にしては珍しく公開一週間で見に行きました。個人的には「シン・○○」の中で一番好きかもしれません。

 

(以下ネタバレあり)

 

「仮面ライダー」シリーズを考えるにあたっては、50年という歴史を通じて多くの作品が生み出されただけでなく、夥しい“おもちゃ”が展開されてきたことに目を向けなければならないだろう。とりわけ仮面ライダーにおいては、バンダイの「COMPLETE SELECTION MODIFICATION(CSM)」のように、高価な大人向けのアイテム、特に変身ベルトが多数販売され、かなりの人気を博しているように思える。

ここから言えるのは、「仮面ライダー」は子どもだけでなく大人も、“ごっこ遊び”を楽しむシリーズであるということだ。また、これら作り手が展開するアイテムだけでなく、大人は特に「バイクに乗る」ことで、仮面ライダーと自らを重ね合わせることもできる。

これは「ウルトラマン」シリーズよりも顕著で、「仮面ライダー」の特異性を表すポイントの一つだろう。つまり等身大のヒーローであり、「なりきる」ためのアイテムが複数存在するという点で、私たちは「仮面ライダーになりたい」という夢を、部分的にせよ叶えることができるのだ。言い換えれば、こうしたアイテムを媒介にして、私たちは仮面ライダーというフィクション世界に没入することができる。

 

今回公開された『シン・仮面ライダー』は、かつて――おそらく今も――仮面ライダーに憧れ、仮面ライダーになりたいと思う大人たちに向けられた作品だと思う。1971年に放送が開始された、初代『仮面ライダー』における印象的なカットが意図的に引用され、細やかな設定を踏襲しつつ再解釈するという手つきは、往年のライダーファンの心をくすぐるには十分だろう。

こうしたファンサービス的要素を至るところに散りばめているという点では、『シン・仮面ライダー』は、非常にライダーファン向けに最適化されたウェルメイドな作品と言えるかもしれない。しかし一方で、私たちが『仮面ライダー』というフィクション世界に対して「過度に没入すること」に、本作は一定の警告を発しているようにも思う。

本作では、冒頭で仮面ライダー=本郷猛が、たやすくSHOCKERの戦闘員を虐殺する。それはマスクをつけることで「人を殺すことへの抵抗が薄れる」からだという。穿った見方かもしれないが、本作における「マスクを付ける」という行為は、フィクションへの没入のメタファーとして読むこともできるかもしれない。我々も、フィクションというフィルターを通せば、その世界では(たとえばゲームなどにおいて)抵抗なく「暴力」を振るうことができるように。

この見方に従うならば、SHOCKERは現実に背を向けフィクション世界へ没入する者であり、対して仮面ライダーはフィクションという重力に引かれながらも、現実に何とか留まろうとする存在と見ることもできるだろう。
また、本作はライダーがSHOCKERの戦闘員を殴ると血しぶきがあがるといった生々しいシーンと、CGなどを用いた、見方によってはギャグにすら見える現実離れした戦闘シーンというアンバランスなビジュアルが、意図的に混在されているようにも思える。このような演出から、「現実」と「フィクション」のパッチワーク、あるいは仮面ライダーが戦いを通じて両者を往復している、ひいては私も、映像を見ることでその二つを往復していたのかもしれない。

加えて、本作は「物語」あるいは「物語ること」を意識的に回避しているようにも思えた。本郷は父親を失ったことで「力」を欲したが、彼がどのような心境でそう思ったのかなど、その詳細は明らかにならず、一文字に至っては来歴がほとんど明かされない。
本郷の父親が命を奪われたのがそうであるように、現実世界は「物語」などない、理不尽なものだ。だが我々は理不尽さを受け入れられないとき、物語ることで現実を理解可能な形に変形させてしまうことがある。その材料として、既存の「フィクション」が使われることもあるだろう。

その意味で『シン・仮面ライダー』は、我々が「仮面ライダー」に求めるフィクション的な記号で構成されていながら、フィクション的なものへ没入することに対し一線を引く、幾分奇妙でねじれた作品なのかもしれない。
だが、そこに庵野秀明の「フィクション」に対する態度のようなものが感じられたのである。

「シビアなフィクション」としての孤城―映画『かがみの孤城』感想

ものすごく今更ながら、映画『かがみの孤城』を見た。もう上映を終える映画館も多いようなので、ギリギリ鑑賞できたという感じです。
(以下、ネタバレがあるので注意)

・・・・・・

『かがみの孤城』は、ある事情で学校に通えなくなった少女・こころを始めとする中学生の男女7人が、不思議な孤城に招かれるところから始まる。彼らを孤城に呼び寄せた狼様と呼ばれる仮面を被った少女は、この城に隠された鍵を来年の3月までの1年間の間に見つけることができれば、誰か1人の願いが叶えられると告げる。こうして彼ら7人の奇妙な共同生活(?)が始まるのだった。

彼ら7人は、皆現実ではそれぞれ複雑な事情を抱えている。それは学校でのいじめであったり、習い事のプレッシャーであったり、家族の喪失だったりと様々なものだ。
そんな彼らは、孤城でのコミュニケーションを通じて、徐々に打ち解け始める。つまりは、鏡を通じて入れる孤城という、ファンタジックでフィクショナブルな舞台が、彼らの「居場所」として機能している。

このようなフィクショナブルなものが、現実で何らかの事情を抱えている彼らをエンパワーメントしていると解するならば、やや強引な気もするが、『君の名は。』を始めとする新海誠作品と関連付けることも可能だろう。たとえばねりま氏は、『君の名は。』に関する論考で、次のように述べている。

 

(……)現実とは別様の現実、言ってしまえば「嘘」を語れるのがフィクションの特権であり、またその「嘘」を通して「真実」を語ることがフィクションの機能であるとするならば、『君の名は。』はフィクションの可能性にはっきり賭金をおいた、そういう物語を語っている。(『フィクションが距離を突破する――『君の名は。』感想』)

 

実際、『かがみの孤城』では、城がフィクショナブルな舞台であることが度々強調される。たとえば冒頭、目の前の城に戸惑うこころに対し、狼様は言う。「城だぞ。冒険が始まるとか、ワクワクしないのか?」と。

だが、こういったフィクショナブルな舞台でありながらも、それは彼らに居心地のよさを与えるだけではなく、一定のシビアさをまとっている。こころやマサムネが現実で受けてきた学校というコミュニティからの排除(≒いじめ)は、孤城の中で、皆がウレシノをバカにする、という形で再生産される。現実ではいじめの被害者であった者が、孤城では加害者になりうるという事実がここでは示唆される。
また、17時までに城を出ないと連帯責任で狼に食べられてしまうことや、そもそも鍵を見つけても願いを叶えられるのは一人だけといったルールも、孤城という舞台がともすれば現実と変わらない弱肉強食の場に変貌してしまうことを予感させる。

しかし、このようなシビアさがあったからこそ、彼らはこの舞台を通して成長することができた。それはウレシノを再び迎え入れたり、黙ってこっそり探していた鍵を皆で手分けして探そうと提案することだったり、孤城を現実を再生産する場にさせまいという彼らの行為に表れているように思う。

孤城での1年を終え、彼らは現実に帰る。こころをはじめ、彼らの記憶がどこまで残っているのか、明確には示されなかったように思うが、おそらくそれは断片的なものだろう。

我々がよく知るように、現実において、フィクションは断片的な力しか持ち得ない。そして本作においても「フィクション」というものが、現実に対し何を成しうるか、ファンタジックな設定とは裏腹に、極めて禁欲的に描かれているように思われる。しかし、そのように禁欲的で「シビアなフィクション」を通じて彼らの成長を描いたところに、この物語の価値があるように思うのである。

「友達」という曖昧な関係――『私に天使が舞い降りた! プレシャス・フレンズ』感想

『私に天使が舞い降りた! プレシャス・フレンズ』を見ました。


2019年にTVアニメが放送された『私に天使が舞い降りた!』の劇場版である本作は、星野みやこと花たち5人が、花の祖母の家に遊びに行くというストーリーである。

花たちを迎えた花の祖母は、「作った」お菓子や料理を用意し振る舞うが、後にそれらを用意したのは祖母自身ではないことが明かされる。花の祖母は、お菓子作りや料理が得意なみやこに「花を取られたくない」と思い、そのような嘘を吐いたのだという。「私はお婆ちゃんが好き。これからもずっと遊びに行く」という花に、安堵した祖母は、みやこと花のことを「良い友達」と評するのだった。

本作では、みやこと花の関係が「友達」であることが(再)確認される。とは言っても、みやこは大学生、花は小学生と年齢はずいぶん離れている。みやこ自身も、その年齢差に、花との関係を「友達」と言ってよいものかどうか、戸惑っている様子も見られる。しかし、花の祖母は「友達に年齢は関係ない」とみやこに言う。花の祖母も幼少期に、かなり年齢が上のマチと「友達」になり、今も交流が続いているのだ。

本作で「友達」であることが確認されるのは、花とみやこだけではない。おそらく、ひなたと乃愛、小依と夏音もそうであり、彼女たちの母親たち、そして花の祖母とマチも、「友達」という靱帯で接続されている。その関係性は極めてフラットで、年齢差や性といったファクターを無化し、言い過ぎかもしれないがそれらを「乗り越える」関係性として表象されているように思う。

一方で「友達」という言葉が、それぞれの関係に内包されている「不純なもの」を隠蔽する装置として機能してしまっているような印象も受ける。みやこの花に対する少々「邪な気持ち」は、彼女が花たちにコスプレをさせ写真撮影する様子から伺えるが、そういった描写も「友達」というフィルターを通じて、綺麗に濾過されているように思う。あるいは、濾過しきれない気持ちも曖昧に維持したまま、関係を継続させていく機能が「友達」にはあるのかもしれない。

このような見方が妥当だとして、それをどのように評価すれば良いのか、正直に言えばよく分からない。だが、みやこが花に対して最初に感じた「もにょっとした気持ち」は、果たして「友達」という言葉に回収されるべきなのだろうか。そのような一抹の違和感を覚えたのは確かである。

最後に付け加えるならば、みやこに対する(ある意味)歪な気持ちを隠し切れない松本が、物語の本筋からは見事に排除されているのは示唆的であり、彼女の気持ちは「友達」という関係に還元できないということが示されていると言えよう。