「フィクション」あるいは「物語」への対峙?――『シン・仮面ライダー』感想

『シン・仮面ライダー』見ました。今回は、私にしては珍しく公開一週間で見に行きました。個人的には「シン・○○」の中で一番好きかもしれません。

 

(以下ネタバレあり)

 

仮面ライダー」シリーズを考えるにあたっては、50年という歴史を通じて多くの作品が生み出されただけでなく、夥しい“おもちゃ”が展開されてきたことに目を向けなければならないだろう。とりわけ仮面ライダーにおいては、バンダイの「COMPLETE SELECTION MODIFICATION(CSM)」のように、高価な大人向けのアイテム、特に変身ベルトが多数販売され、かなりの人気を博しているように思える。

ここから言えるのは、「仮面ライダー」は子どもだけでなく大人も、“ごっこ遊び”を楽しむシリーズであるということだ。また、これら作り手が展開するアイテムだけでなく、大人は特に「バイクに乗る」ことで、仮面ライダーと自らを重ね合わせることもできる。

これは「ウルトラマン」シリーズよりも顕著で、「仮面ライダー」の特異性を表すポイントの一つだろう。つまり等身大のヒーローであり、「なりきる」ためのアイテムが複数存在するという点で、私たちは「仮面ライダーになりたい」という夢を、部分的にせよ叶えることができるのだ。言い換えれば、こうしたアイテムを媒介にして、私たちは仮面ライダーというフィクション世界に没入することができる。

 

今回公開された『シン・仮面ライダー』は、かつて――おそらく今も――仮面ライダーに憧れ、仮面ライダーになりたいと思う大人たちに向けられた作品だと思う。1971年に放送が開始された、初代『仮面ライダー』における印象的なカットが意図的に引用され、細やかな設定を踏襲しつつ再解釈するという手つきは、往年のライダーファンの心をくすぐるには十分だろう。

こうしたファンサービス的要素を至るところに散りばめているという点では、『シン・仮面ライダー』は、非常にライダーファン向けに最適化されたウェルメイドな作品と言えるかもしれない。しかし一方で、私たちが『仮面ライダー』というフィクション世界に対して「過度に没入すること」に、本作は一定の警告を発しているようにも思う。

本作では、冒頭で仮面ライダー=本郷猛が、たやすくSHOCKERの戦闘員を虐殺する。それはマスクをつけることで「人を殺すことへの抵抗が薄れる」からだという。穿った見方かもしれないが、本作における「マスクを付ける」という行為は、フィクションへの没入のメタファーとして読むこともできるかもしれない。我々も、フィクションというフィルターを通せば、その世界では(たとえばゲームなどにおいて)抵抗なく「暴力」を振るうことができるように。

この見方に従うならば、SHOCKERは現実に背を向けフィクション世界へ没入する者であり、対して仮面ライダーはフィクションという重力に引かれながらも、現実に何とか留まろうとする存在と見ることもできるだろう。
また、本作はライダーがSHOCKERの戦闘員を殴ると血しぶきがあがるといった生々しいシーンと、CGなどを用いた、見方によってはギャグにすら見える現実離れした戦闘シーンというアンバランスなビジュアルが、意図的に混在されているようにも思える。このような演出から、「現実」と「フィクション」のパッチワーク、あるいは仮面ライダーが戦いを通じて両者を往復している、ひいては私も、映像を見ることでその二つを往復していたのかもしれない。

加えて、本作は「物語」あるいは「物語ること」を意識的に回避しているようにも思えた。本郷は父親を失ったことで「力」を欲したが、彼がどのような心境でそう思ったのかなど、その詳細は明らかにならず、一文字に至っては来歴がほとんど明かされない。
本郷の父親が命を奪われたのがそうであるように、現実世界は「物語」などない、理不尽なものだ。だが我々は理不尽さを受け入れられないとき、物語ることで現実を理解可能な形に変形させてしまうことがある。その材料として、既存の「フィクション」が使われることもあるだろう。

その意味で『シン・仮面ライダー』は、我々が「仮面ライダー」に求めるフィクション的な記号で構成されていながら、フィクション的なものへ没入することに対し一線を引く、幾分奇妙でねじれた作品なのかもしれない。
だが、そこに庵野秀明の「フィクション」に対する態度のようなものが感じられたのである。