“異星人”から“ウルトラマン”へ:『シン・ウルトラマン』感想

ようやく『シン・ウルトラマン』を見ました。

シン・ゴジラ』は、僕がゴジラにあまり詳しくないこともあり、作品内の各種のオマージュ(それがどの程度あったのかは分からないが)を感じ取ることができなかったが、『シン・ウルトラマン』には『ウルトラマン』、そして『ウルトラセブン』における印象的なシーンやカットが各所に散りばめられ、『シン・ゴジラ』に比べ、より旧作の“リブート”という感じを強く受けた。
 そういった細やかなディティールを見てニヤリとするのも、この作品の一つの楽しみ方なのかもしれない。だがもう少し大きなテーマに接近するのであれば、それは主にウルトラシリーズ初期を通じて断片的に描かれながらも、解答を保留されてきた「なぜウルトラマンは人間を守るのか」、「人間はウルトラマンに守ってもらう価値がある存在なのか」という問いを、本作は“リブート”しているように思う。
 結論としては、その問いに対する明確な答えは、本作でも与えられていない。だが本作はウルトラマンが、神永という一人の人間の行為をきっかけに“人間を知ろうとする”物語であり、その意味では主役はウルトラマンではなく、むしろ“人間”なのかもしれない。ウルトラマンと一体化した後の神永が、書庫で文化人類学レヴィ=ストロースの『野生の思考』のページを繰っているシーンは、その意味で象徴的である。いわばウルトラマンは“未開の地”である地球に興味を持った異星人の一人に過ぎない。
 しかし、ウルトラマンは人間を兵器として管理しようとするメフィラスや、兵器として利用されることを未然に防ぐため、人間を滅ぼそうとするゾーフィとは違い、わずかな人間の可能性を守ろうとする。もちろん、ウルトラマンがメフィラスやゾーフィとどこまで異なるのかは定かではない。“あまりに未成熟である”人間を守ろうとすることは結局のところ、人間を庇護の対象として自らの下位に置いているとも言える。また、彼が人間を守ろうと思ったのは、神永の不合理な行為に興味を抱いたからに過ぎず、それ以上の理由が明確に語られるわけではない。
 それでも、だからこそウルトラマンは人間を知ろうとしたのだし、「宇宙の数ある生命の一つが滅びるに過ぎない」と述べたゾーフィに対し、「そうだとしても彼らにとっては唯一無二のものだ」と返答した。それはウルトラマンが異星人でありつつ、地球に来た者として、もはや単なる“よそ者”ではないことを意味しているように思う。
 浅見から「あなたは異星人なの、人間なの?」と問われたとき、神永=ウルトラマンは「両方だ」と答えた。それは“ウルトラマン”という存在自体を示しているだろう。彼は人間ではないだろうが、ひかりの星のゾーフィも含めた他の異星人と同じ“よそ者”でもない。神永と一体化したウルトラマンの外見が変化したことが、その象徴であるように思う。そのとき彼は“異星人”から“ウルトラマン”になったのだ。
 見終わったとき、ウルトラマンは旧作と同じくスーツを来たアクターが演じるべきだったのではないか、と思った。ウルトラマンのスーツを来たアクターという存在は、異星人と人間の重なり合いを表象しているように考えたからだ。
 しかし、やはりウルトラマンをCGで描いたのは正しかったと言える。やはり彼はあくまで本来は“異星人”であり、その上で人間を理解しようとした。そのためには、スーツを着た人間が“異星人を演じる”のではなく、人間ではない異星人としての身体が、ウルトラマンには与えられなければならなかったのである。