切り離された「エゴイズム」:『映画ヒーリングっどプリキュア ゆめのまちでキュン!っとGoGo!大変身!!』についての雑感

 
 3月20日に公開された『映画ヒーリングっどプリキュア ゆめのまちでキュン!っとGoGo!大変身!!』を見ました。結論から言うと、あまり物語として納得できるものではありませんでした。映像的には過去の劇場版と比べても遜色なく、バトルシーンの迫力も充分だったと思いますが、それ以上に批判すべき大きな問題が含まれていると感じています。
 以下、作品のあらすじと感想を記します。ネタバレが含まれていますのでご了承ください。



 『映画ヒーリングっどプリキュア ゆめのまちでキュン!っとGoGo!大変身!!』は、のどかたちが東京を訪れるシーンから始まる。作中では、夢を映し出すことができる“ゆめアール”が流行しており、のどかたちもそれを目当てにやってきたのだった。
 早速、ゆめアールを楽しむのどかたち。そしてラテの迷子をきっかけに、のどかは一人の少女と出会う。少女は不意にのどかにこう告げる。「早くここから離れて」と……。
 少女の警告に戸惑うのどかだったが、彼女とはほどなく再開することとなる。少女は“ゆめアールプリンセス”こと、人気モデルのカグヤだった。カグヤを前にして、盛り上がる大勢の人々。しかしそんな中、謎の敵「エゴエゴ」が突如として現れる。のどかたちはプリキュアに変身し、エゴエゴとのバトルがスタートする。

 実はカグヤは人間ではなく「奇跡の花」の精霊のような存在で、ゆめアールの開発者・我修院博士が、偶然出会って以来娘として育ててきた少女だった。だが、カグヤが14歳の誕生日に消滅してしまうことを知った博士は、それを防ぐため、奇跡の花急いで咲かせようとし、そのために必要な「夢のつぼみ」を人々から奪うべく生み出され、博士に使役されていたのが、エゴエゴであった。しかし、エゴエゴは博士から命令されることに嫌気がさし、カグヤを捕らえ博士に反旗を翻す。そしてエゴエゴに対峙するプリキュア……。
 
 カグヤは博士にとって子どものような存在であり、それゆえ博士はカグヤを救いたいと願う。一方で、博士によって生み出されたという意味ではエゴエゴもまさしく博士にとっての「子ども」である。なのに、エゴエゴは道具としてしか扱われず、そのことが作中で批判的に言及されることはない。カグヤを救いたいという気持ちは分かるが、そのためにエゴエゴを道具として使うのは正当化されうるのか、という疑問が湧く。

 また「エゴエゴ」という名前から「エゴイズム」をイメージするのは想像に難くない。そう考えるのであれば、エゴエゴは我修院博士のエゴイズムを象徴した存在だろう。一方でカグヤは、人々に希望をもってほしいという博士の強い願いが自分と博士を引き合わせたのではないかと言っている。すなわちエゴエゴが博士のエゴイズムの具現化であるならば、カグヤは博士の良心を象徴した存在ではないか。その意味でも、カグヤとエゴエゴは2人とも博士の「子ども」なのである。

 言うまでもなく、人間は良心を持つと同時に、エゴイズムも持っている。それらは人間から離れて存在することはできない。そして人間の中にそういった相反する物が同時に存在すること、それは『スター☆トゥインクルプリキュア』が描き出した問題ではなかったか。“想像力”(イマジネーション)は不完全であり、それゆえ差別をはじめとする悪も生み出す。しかし『スター☆トゥインクルプリキュア』は、想像力が不完全であることを認めつつ、かなり楽観的ではあるが、それが生み出す歪みを乗り越え“キラやば”な世界を作っていくという道を選んだように思う。
 
 この「映画ヒーリングっどプリキュア」では、博士のエゴイズムを、エゴエゴという存在として具現化し、人間から切り離された自律的な「敵」として描いているように思える。怒りを向けられ、倒されるべきはエゴエゴであり、博士は批判されることも、エゴエゴという存在を生み出したことを省みることもない。それは『スター☆トゥインクルプリキュア』が描いたテーマを骨抜きにしてしまうことではないか。
 
 エゴイズムを批判されるべきものとして描くならば、博士は自らのエゴイズムと、そして生み出した「エゴエゴ」に対し、何らかの形で向き合うべきであったのではないだろうか?