世界、存在、そして他者――『映画プリキュアオールスターズF』感想

『映画プリキュアオールスターズF』を見た。プリキュアシリーズの20周年を飾る一作として、シリーズを通して主張されてきた要素が再確認されている作品だと感じた。

(以下、ネタバレ有り)

 

『ひろがるスカイ!プリキュア』の主人公・ソラをはじめ、他のキャラクターたちは、ある世界で他のプリキュアたちを出会う。なぜこの世界に自分たちがいるのかはわからない。しかし、仲間たちもこの世界にいるはずだ。そう信じて、彼女たちは仲間たちと合うため、そびえ立つ「城」を目指す。そんな中、ソラたちは「キュアシュプリーム」と名乗る一人のプリキュアと出会う。

 やがてそびえ立つ塔にたどり着き、仲間たちと合流するソラたち。だが、プリキュアであるはずのキュアシュプリームは、突如として彼女らに牙を剥く。実はシュプリームは、プリキュアたちを倒し、世界を新たに作り替えた存在だった。そしてプリキュアの強さに興味を持ったシュプリームは、作り替えた世界で弱いものと悪者を作り出し、プリキュアとして「悪者」を倒す実験を始めたのだった。

 シュプリームによって、バラバラにされ、作り変えられてしまった世界。その事実を知り、失意に飲まれるプリキュアたち。

 シュプリームによって書き換えられ、自分たちは消されたはずだ。ではなぜ自分たちはここにいるのか?――「意味が分からない」そうこぼすキュアプリズム。それに答えるキュアスカイも同様だ。しかしそのとき、プリズムは何か気づいたように「それだよ」と返す。

 それをきっかけに、プリキュアたちによる「自分たちの世界を取り戻す」ための反撃がはじまる。

 

 私は、プリキュアという作品を通じて、「他者」が大きなキーワードとして有り続けてきたと思っている。そして、本作でもそれが、改めて大きな主題として再確認されているように思う。

 プリキュアの世界観において、「私」は、絶対的な「他者」によって存在を根拠づけられているわけではない。しかし一方で、「他者」を必要としない絶対者としての「私」が存在しているわけでもない。「他者」というのは、間違いなく「私」の存在を支えているのだが、「私」と「他者」は決して従属関係にあるのではない。それが「プリキュア」で幾度となく言及される「友だち」という他者なのだろう。

 おそらくプリキュアが目指しているのは、誰かによって存在「させられている」ことがない世界であるが、しかし「私」が孤立することなく、互いに存在を肯定しあい、共に存在していくことのできる世界なのだろう。

 絶対者であり、あろうとするシュプリーム=プリムは、その意味でプリキュアたちにとって相反する思想を持った者なのであり、プリムが生み出し、プリムに存在させられた「プーカ」がプリキュアになり、プリムに立ち向かうといった構図も、その批判として表象されているように思う。

 ここで、『ひろがるスカイ!プリキュア』のキーワードが「ヒーロー」であることを、今一度思い起こすのならば、プリキュアにおいて「ヒーロー」とは、強大な力を持つ無欠の絶対者ではなく、他者と支え合う存在であることが示唆される。そしておそらくこれは、これから終盤へ向かう『ひろがるスカイ!プリキュア』においても、重要な意味を帯びてくるように思う。

 

「フィクション」あるいは「物語」への対峙?――『シン・仮面ライダー』感想

『シン・仮面ライダー』見ました。今回は、私にしては珍しく公開一週間で見に行きました。個人的には「シン・○○」の中で一番好きかもしれません。

 

(以下ネタバレあり)

 

仮面ライダー」シリーズを考えるにあたっては、50年という歴史を通じて多くの作品が生み出されただけでなく、夥しい“おもちゃ”が展開されてきたことに目を向けなければならないだろう。とりわけ仮面ライダーにおいては、バンダイの「COMPLETE SELECTION MODIFICATION(CSM)」のように、高価な大人向けのアイテム、特に変身ベルトが多数販売され、かなりの人気を博しているように思える。

ここから言えるのは、「仮面ライダー」は子どもだけでなく大人も、“ごっこ遊び”を楽しむシリーズであるということだ。また、これら作り手が展開するアイテムだけでなく、大人は特に「バイクに乗る」ことで、仮面ライダーと自らを重ね合わせることもできる。

これは「ウルトラマン」シリーズよりも顕著で、「仮面ライダー」の特異性を表すポイントの一つだろう。つまり等身大のヒーローであり、「なりきる」ためのアイテムが複数存在するという点で、私たちは「仮面ライダーになりたい」という夢を、部分的にせよ叶えることができるのだ。言い換えれば、こうしたアイテムを媒介にして、私たちは仮面ライダーというフィクション世界に没入することができる。

 

今回公開された『シン・仮面ライダー』は、かつて――おそらく今も――仮面ライダーに憧れ、仮面ライダーになりたいと思う大人たちに向けられた作品だと思う。1971年に放送が開始された、初代『仮面ライダー』における印象的なカットが意図的に引用され、細やかな設定を踏襲しつつ再解釈するという手つきは、往年のライダーファンの心をくすぐるには十分だろう。

こうしたファンサービス的要素を至るところに散りばめているという点では、『シン・仮面ライダー』は、非常にライダーファン向けに最適化されたウェルメイドな作品と言えるかもしれない。しかし一方で、私たちが『仮面ライダー』というフィクション世界に対して「過度に没入すること」に、本作は一定の警告を発しているようにも思う。

本作では、冒頭で仮面ライダー=本郷猛が、たやすくSHOCKERの戦闘員を虐殺する。それはマスクをつけることで「人を殺すことへの抵抗が薄れる」からだという。穿った見方かもしれないが、本作における「マスクを付ける」という行為は、フィクションへの没入のメタファーとして読むこともできるかもしれない。我々も、フィクションというフィルターを通せば、その世界では(たとえばゲームなどにおいて)抵抗なく「暴力」を振るうことができるように。

この見方に従うならば、SHOCKERは現実に背を向けフィクション世界へ没入する者であり、対して仮面ライダーはフィクションという重力に引かれながらも、現実に何とか留まろうとする存在と見ることもできるだろう。
また、本作はライダーがSHOCKERの戦闘員を殴ると血しぶきがあがるといった生々しいシーンと、CGなどを用いた、見方によってはギャグにすら見える現実離れした戦闘シーンというアンバランスなビジュアルが、意図的に混在されているようにも思える。このような演出から、「現実」と「フィクション」のパッチワーク、あるいは仮面ライダーが戦いを通じて両者を往復している、ひいては私も、映像を見ることでその二つを往復していたのかもしれない。

加えて、本作は「物語」あるいは「物語ること」を意識的に回避しているようにも思えた。本郷は父親を失ったことで「力」を欲したが、彼がどのような心境でそう思ったのかなど、その詳細は明らかにならず、一文字に至っては来歴がほとんど明かされない。
本郷の父親が命を奪われたのがそうであるように、現実世界は「物語」などない、理不尽なものだ。だが我々は理不尽さを受け入れられないとき、物語ることで現実を理解可能な形に変形させてしまうことがある。その材料として、既存の「フィクション」が使われることもあるだろう。

その意味で『シン・仮面ライダー』は、我々が「仮面ライダー」に求めるフィクション的な記号で構成されていながら、フィクション的なものへ没入することに対し一線を引く、幾分奇妙でねじれた作品なのかもしれない。
だが、そこに庵野秀明の「フィクション」に対する態度のようなものが感じられたのである。

「シビアなフィクション」としての孤城―映画『かがみの孤城』感想

ものすごく今更ながら、映画『かがみの孤城』を見た。もう上映を終える映画館も多いようなので、ギリギリ鑑賞できたという感じです。
(以下、ネタバレがあるので注意)

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かがみの孤城』は、ある事情で学校に通えなくなった少女・こころを始めとする中学生の男女7人が、不思議な孤城に招かれるところから始まる。彼らを孤城に呼び寄せた狼様と呼ばれる仮面を被った少女は、この城に隠された鍵を来年の3月までの1年間の間に見つけることができれば、誰か1人の願いが叶えられると告げる。こうして彼ら7人の奇妙な共同生活(?)が始まるのだった。

彼ら7人は、皆現実ではそれぞれ複雑な事情を抱えている。それは学校でのいじめであったり、習い事のプレッシャーであったり、家族の喪失だったりと様々なものだ。
そんな彼らは、孤城でのコミュニケーションを通じて、徐々に打ち解け始める。つまりは、鏡を通じて入れる孤城という、ファンタジックでフィクショナブルな舞台が、彼らの「居場所」として機能している。

このようなフィクショナブルなものが、現実で何らかの事情を抱えている彼らをエンパワーメントしていると解するならば、やや強引な気もするが、『君の名は。』を始めとする新海誠作品と関連付けることも可能だろう。たとえばねりま氏は、『君の名は。』に関する論考で、次のように述べている。

 

(……)現実とは別様の現実、言ってしまえば「嘘」を語れるのがフィクションの特権であり、またその「嘘」を通して「真実」を語ることがフィクションの機能であるとするならば、『君の名は。』はフィクションの可能性にはっきり賭金をおいた、そういう物語を語っている。『フィクションが距離を突破する――『君の名は。』感想』

 

実際、『かがみの孤城』では、城がフィクショナブルな舞台であることが度々強調される。たとえば冒頭、目の前の城に戸惑うこころに対し、狼様は言う。「城だぞ。冒険が始まるとか、ワクワクしないのか?」と。

だが、こういったフィクショナブルな舞台でありながらも、それは彼らに居心地のよさを与えるだけではなく、一定のシビアさをまとっている。こころやマサムネが現実で受けてきた学校というコミュニティからの排除(≒いじめ)は、孤城の中で、皆がウレシノをバカにする、という形で再生産される。現実ではいじめの被害者であった者が、孤城では加害者になりうるという事実がここでは示唆される。
また、17時までに城を出ないと連帯責任で狼に食べられてしまうことや、そもそも鍵を見つけても願いを叶えられるのは一人だけといったルールも、孤城という舞台がともすれば現実と変わらない弱肉強食の場に変貌してしまうことを予感させる。

しかし、このようなシビアさがあったからこそ、彼らはこの舞台を通して成長することができた。それはウレシノを再び迎え入れたり、黙ってこっそり探していた鍵を皆で手分けして探そうと提案することだったり、孤城を現実を再生産する場にさせまいという彼らの行為に表れているように思う。

孤城での1年を終え、彼らは現実に帰る。こころをはじめ、彼らの記憶がどこまで残っているのか、明確には示されなかったように思うが、おそらくそれは断片的なものだろう。

我々がよく知るように、現実において、フィクションは断片的な力しか持ち得ない。そして本作においても「フィクション」というものが、現実に対し何を成しうるか、ファンタジックな設定とは裏腹に、極めて禁欲的に描かれているように思われる。しかし、そのように禁欲的で「シビアなフィクション」を通じて彼らの成長を描いたところに、この物語の価値があるように思うのである。

「友達」という曖昧な関係――『私に天使が舞い降りた! プレシャス・フレンズ』感想

『私に天使が舞い降りた! プレシャス・フレンズ』を見ました。


2019年にTVアニメが放送された『私に天使が舞い降りた!』の劇場版である本作は、星野みやこと花たち5人が、花の祖母の家に遊びに行くというストーリーである。

花たちを迎えた花の祖母は、「作った」お菓子や料理を用意し振る舞うが、後にそれらを用意したのは祖母自身ではないことが明かされる。花の祖母は、お菓子作りや料理が得意なみやこに「花を取られたくない」と思い、そのような嘘を吐いたのだという。「私はお婆ちゃんが好き。これからもずっと遊びに行く」という花に、安堵した祖母は、みやこと花のことを「良い友達」と評するのだった。

本作では、みやこと花の関係が「友達」であることが(再)確認される。とは言っても、みやこは大学生、花は小学生と年齢はずいぶん離れている。みやこ自身も、その年齢差に、花との関係を「友達」と言ってよいものかどうか、戸惑っている様子も見られる。しかし、花の祖母は「友達に年齢は関係ない」とみやこに言う。花の祖母も幼少期に、かなり年齢が上のマチと「友達」になり、今も交流が続いているのだ。

本作で「友達」であることが確認されるのは、花とみやこだけではない。おそらく、ひなたと乃愛、小依と夏音もそうであり、彼女たちの母親たち、そして花の祖母とマチも、「友達」という靱帯で接続されている。その関係性は極めてフラットで、年齢差や性といったファクターを無化し、言い過ぎかもしれないがそれらを「乗り越える」関係性として表象されているように思う。

一方で「友達」という言葉が、それぞれの関係に内包されている「不純なもの」を隠蔽する装置として機能してしまっているような印象も受ける。みやこの花に対する少々「邪な気持ち」は、彼女が花たちにコスプレをさせ写真撮影する様子から伺えるが、そういった描写も「友達」というフィルターを通じて、綺麗に濾過されているように思う。あるいは、濾過しきれない気持ちも曖昧に維持したまま、関係を継続させていく機能が「友達」にはあるのかもしれない。

このような見方が妥当だとして、それをどのように評価すれば良いのか、正直に言えばよく分からない。だが、みやこが花に対して最初に感じた「もにょっとした気持ち」は、果たして「友達」という言葉に回収されるべきなのだろうか。そのような一抹の違和感を覚えたのは確かである。

最後に付け加えるならば、みやこに対する(ある意味)歪な気持ちを隠し切れない松本が、物語の本筋からは見事に排除されているのは示唆的であり、彼女の気持ちは「友達」という関係に還元できないということが示されていると言えよう。

“お子さまランチ”の脱構築ー『映画デリシャスパーティ♡プリキュア 夢みる♡お子さまランチ』感想

『映画デリシャスパーティ♡プリキュア 夢みる♡お子さまランチ!』を見た。

 近年の「プリキュア」は、それまでシリーズが積み上げてきた主題を反復しつつも、常に新たな要素を付け加えてきたように感じていたが、本作もそのように捉えることが可能だろう。

  本作の舞台は、子どもだけが入場できるテーマパーク「ドリーミア」。その園長であるケットシーは、自身が「大人」に裏切られた経験から、純粋な心を持った「子ども」を守ろうとする。そして、大人たちをぬいぐるみに変え、世界を変えようとする。

 本作で「子ども」のメルクマールとして機能し、子どもの特権として表象されているのが、タイトルにもある「お子さまランチ」である。大人になりたいコメコメは、お子さまランチを食べることをためらうし、ケットシー自身も、自らは(子どものころゆいと食べた)「お子さまランチを(今は)食べる資格がない」とつぶやく。いわば、お子さまランチを食べ(られ) るかどうかが、大人と子どもを隔てる分水嶺となっている。

 成熟を阻み、「子ども」という檻に閉じ込めようとする敵たちに対し、抗うプリキュアたちという構図はこれまでの作品において何度か見られた。たとえば『映画ドキドキ!プリキュア』や『映画プリキュアラクルリープ』が、代表的な例として挙げられるだろう。

 本作においても、そのような構図が踏襲されていると言える。だが、本作では一歩進んで、大人/子どもという二項対立的な図式自体を、解体することが目論まれているように思う。

 「お子さまランチ」は誰でも食べていい。そして、純粋な気持ちを失いかけたとしても「お子さまランチ」がかつての思いを蘇らせてくれる。

 人は「大人になる」ことで、子どもだった頃の自分を失うわけではない。そもそも我々はいつから「大人になった」のだろうか? そう問われて、その境界を明確に答えられる者はいないだろう。

 『デリシャスパーティ♡プリキュア』は、「食べること」を通じて、人と思いを分け合うことをテーマとしてきた。その意味において、「お子さまランチ」という概念は、大人と子どもを分断してしまうものになりかねない。

 その意味において、本作は皮肉にも、タイトルに冠されている「お子さまランチ」の概念を脱構築することが、その主題だったのではないだろうか。

“異星人”から“ウルトラマン”へ:『シン・ウルトラマン』感想

ようやく『シン・ウルトラマン』を見ました。

シン・ゴジラ』は、僕がゴジラにあまり詳しくないこともあり、作品内の各種のオマージュ(それがどの程度あったのかは分からないが)を感じ取ることができなかったが、『シン・ウルトラマン』には『ウルトラマン』、そして『ウルトラセブン』における印象的なシーンやカットが各所に散りばめられ、『シン・ゴジラ』に比べ、より旧作の“リブート”という感じを強く受けた。
 そういった細やかなディティールを見てニヤリとするのも、この作品の一つの楽しみ方なのかもしれない。だがもう少し大きなテーマに接近するのであれば、それは主にウルトラシリーズ初期を通じて断片的に描かれながらも、解答を保留されてきた「なぜウルトラマンは人間を守るのか」、「人間はウルトラマンに守ってもらう価値がある存在なのか」という問いを、本作は“リブート”しているように思う。
 結論としては、その問いに対する明確な答えは、本作でも与えられていない。だが本作はウルトラマンが、神永という一人の人間の行為をきっかけに“人間を知ろうとする”物語であり、その意味では主役はウルトラマンではなく、むしろ“人間”なのかもしれない。ウルトラマンと一体化した後の神永が、書庫で文化人類学レヴィ=ストロースの『野生の思考』のページを繰っているシーンは、その意味で象徴的である。いわばウルトラマンは“未開の地”である地球に興味を持った異星人の一人に過ぎない。
 しかし、ウルトラマンは人間を兵器として管理しようとするメフィラスや、兵器として利用されることを未然に防ぐため、人間を滅ぼそうとするゾーフィとは違い、わずかな人間の可能性を守ろうとする。もちろん、ウルトラマンがメフィラスやゾーフィとどこまで異なるのかは定かではない。“あまりに未成熟である”人間を守ろうとすることは結局のところ、人間を庇護の対象として自らの下位に置いているとも言える。また、彼が人間を守ろうと思ったのは、神永の不合理な行為に興味を抱いたからに過ぎず、それ以上の理由が明確に語られるわけではない。
 それでも、だからこそウルトラマンは人間を知ろうとしたのだし、「宇宙の数ある生命の一つが滅びるに過ぎない」と述べたゾーフィに対し、「そうだとしても彼らにとっては唯一無二のものだ」と返答した。それはウルトラマンが異星人でありつつ、地球に来た者として、もはや単なる“よそ者”ではないことを意味しているように思う。
 浅見から「あなたは異星人なの、人間なの?」と問われたとき、神永=ウルトラマンは「両方だ」と答えた。それは“ウルトラマン”という存在自体を示しているだろう。彼は人間ではないだろうが、ひかりの星のゾーフィも含めた他の異星人と同じ“よそ者”でもない。神永と一体化したウルトラマンの外見が変化したことが、その象徴であるように思う。そのとき彼は“異星人”から“ウルトラマン”になったのだ。
 見終わったとき、ウルトラマンは旧作と同じくスーツを来たアクターが演じるべきだったのではないか、と思った。ウルトラマンのスーツを来たアクターという存在は、異星人と人間の重なり合いを表象しているように考えたからだ。
 しかし、やはりウルトラマンをCGで描いたのは正しかったと言える。やはり彼はあくまで本来は“異星人”であり、その上で人間を理解しようとした。そのためには、スーツを着た人間が“異星人を演じる”のではなく、人間ではない異星人としての身体が、ウルトラマンには与えられなければならなかったのである。

「別れの言葉」は言わない――劇場版『きんいろモザイクThank you!!』感想

 遅ればせながら、劇場版『きんいろモザイクThank you!!』を観ました。実は「きんモザ」はアニメ1期すら完走していないし、5年前の映画1作目「Pretty Days」も観ていないのに大丈夫だろうか……と思いつつ観に行ったのですが、とても楽しめました。
以下、ネタバレありの感想です。

 

 この10年来ですっかり定着した「日常系」というジャンルが向き合ってきたもっとも大きなテーゼは「日常の終わりをいかに描くか」というものだろう。たとえば日常系アニメの火付け役となった『けいおん!』は、卒業によって終わってしまう今の日常、そしてその寂しさと未来への期待が入り混じった少女たちの感情を見事に描いたし、近年放映された『まちカドまぞく』においては、「日常」それ自体の自明性を問うことで、「日常の有限性」が示唆されている。
 今回上映された劇場版『きんいろモザイクThank you!!』も、卒業という極めてオーソドックスな切り口ではあるが、一つの「日常の終わり」を描いている。着目すべきなのは、その主題自体よりも、シノやアリスたちが「終わりゆく日常」に対し、どのように向き合っているかだろう。
 本作は、全体を通して“異様なまでの明るさ”に溢れている。随所に散りばめられた畳みかけるようなギャグシーンは、少なからず観客の笑いを誘ったはずだ。私も例外ではなかった。しかし、思い返すとそれはあまりにも「過剰」な気がする。まるで終わりゆく日常、そして湧き上がる寂しさをなんとか振り切ろうとするがごとく……。
 また、シノたち5人はいずれも進学を選ぶが、同じ大学に行くわけではない。綾、陽子、カレンは同じ日本の大学に進学するが、シノとアリスはイギリスの大学に進学すると決める。たしかに作中でも言及されるように、交通手段が発達した現代において「日本とイギリスは案外近い」。そして今では言うまでもなく、インターネットを通じて、地球上のどこでもコミュニケートすることもできる。しかしこのように「物理的な近さ」が強調される一方で、本作では一緒にいるはずの彼女たちですら、潜在的に離れていることもまた示唆される。それを象徴的に表しているのが、アリスがシノに「卒業したらイギリスの大学に行く」ことを英語で告げるものの、シノはその英語を理解できなかったという場面だ。
 ずっと一緒にいても、まだ通じないこともある。だがそれはネガティブに解されるものではない。「まだ通じ合えない部分がある」からこそ、これからもまだお互いに「近づいていける」のだ。おそらく彼女たちは寂しさを振り切って、一貫して前を向こうとしている。
 それはもしかすると、少なからず「空元気」の部分もあるかもしれない。だがシノが言うように「ため息をつくと幸せは逃げてしまう」。だから決して「さよなら」とは言わない。卒業に際して口にするのは「これからもよろしく」なのだ。そして高校生活を思い出すとき、過ぎ去った日を惜しむよりも、彼女たちはこう思うのだろう――「ありがとう」と。